いにしえをたどろう3

 

日本からアクセサリーが消えた理由は何?

①飛鳥時代1

②飛鳥時代2

③奈良時代、染色

④平安時代

に分けてそれぞれの時代背景とアクセサリー事情を探ってみました。

そこには、国づくりに情熱を傾けた古代の人々と、外国の文化を捉えて消化していく姿が見えました。

 

目的:

歴史をたどることで、なぜアクセサリーは消えてしまったのか、を探る

なぞ:

日本はには昔から真珠の産地がある。なぜ使われていなかったのか。

仮説:

日本独自の文化がそれを必要としなくなった。時代背景と精神性が関係がありそう。時の政治との関係も背景のひとつ。

パールでたどる世界史、日本編③  飛鳥と奈良、染色の実態

これまでのお話

①飛鳥1

https://veronic-pearls.com/jewelry-history/3505/

②飛鳥2

https://veronic-pearls.com/jewelry-history/3559/

 

飛鳥から奈良時代へ、加速する仏教文化

 

飛鳥時代は激動の時代。
大王と拮抗する豪族たちは権力の勢力争いをしていました。

飛鳥 山辺の道

天皇を中心とした統一国家を作りたいという推古天皇、聖徳太子の志は、豪族を押さえ込みながら次の天皇へと受け継がれていきます。

天智天皇、天武天皇、持統天皇へと続きます。

7世紀の600年頃から始まった飛鳥時代は足かけ100年、とうとう天皇中心の律令政治、大宝律令が完成します。

 

律令国家が整い、奈良時代になると、仏教を学ぶのに遣唐使を盛んに送り、鑑真も来日します。

 

奈良時代は、全国に養蚕の技術もいきわたり、絹の生地が生産されるようになったのも
天皇など高位の衣服の色の変化と関係があります。

この時代の染色の実態を知る事はこの後のアクササリーのとの関係を知る事になります。

染色の技術を見てみましょう。

日本の植物の染色

 

あまり知られていませんが、鮮やかで美しい染色はこの飛鳥時代から始まります。

この「染色」という言葉が今後のキーワードになります。

聖徳太子が冠位十二階を制定した際は12色。
役職による位分けを色でわかるようにしました。

この色による政治政策は、秩序を生み出すことと色への意識を変化させる要因になったと思うのです。

 

冠も着る衣装も布製で同色。

もはや、権力を誇示するネックレスは去り、キラキラの冠は天皇以外着けることはできません。

豪族がこぞってつけていた勾玉も天皇のものです。

今も三種の神器の一つが勾玉ですからね。

 

高位の役職は濃い紫、淡に紫、というように
紫は濃ければ濃いほど位が高い。

濃い紫は天皇の着ける色です。

 日本史事典より出典

これらはもちろん、植物から染められていました。

もともと、白と黒は一番古い色で、白い粘土や炭の粉を動物や植物の油と混ぜて塗って、
神話の時代からあったようです。

 

紫は、紫根と灰汁と酢で濃艶な色をつくります。

青は今で言う緑色。藍色を中心に苅り安草等を加える。

赤は茜と灰汁で。

黄色はくちなし。

だいだいはくちなしと紅花。

乾燥させて水でふやかし、色素を出して様々な色を創作しました。

 紫根(薬用植物総合情報データベース出典)

 

最初の冠十二階の12色から、天皇が変わると冠位の色も増えていきます。

大宝律令が終えた頃には冠位は48階になっています。それだけ人も役職も増えたということですね。

 日本・世界の伝統色&ウェブカラー 出典

この色へ感性が後の貴族へ繋がっていると思います。

伎楽面のパレードは天平の染色の色見本のよう

 

そして、その色は古代に東大寺や薬師寺等の
仮面舞踊劇の伎楽面の衣装にも使われました。

推古天皇の時代に百済から伝わりました。

東大寺の大仏開眼法要でも納められた舞踊で、パントマイムの喜劇。ペルシアの異国風のお面をつけたり、酔っ払いの赤い顔のお面など、いろんな顔のお面で当時の人々を笑かしました。

 

色鮮やかな衣装は、正倉院宝物をもとに吉岡幸雄さんの工房で作られました。(工房のHP)
吉岡幸雄さんは、「染司 よしおか」五代目。
日本古来の色を再現され、情熱を持って取り組んでおられました。

2019年ご逝去

 

 

飛鳥時代の色彩はとても鮮やかで、きらびやかです。

東大寺の2月のお水取りでは、「染司 よしおか」で
作られた植物染めによる和紙の椿が納められます。

    花ごしらえの椿 本物の椿の木につけられて飾るそうです。(東大寺御朱印 出典)

このような植物染めの技術は途中廃れてしまうものを今日再現され、改めてその当時を偲ばれて嬉しいです。

飛鳥時代から奈良時代にかけての染色の技術、この時代にほぼ完成したと聞きます。

日本の色への関心はこのあと、独自の文化としてさらに洗練されていきます。

    

平城京祭りの様子 2017

染色の技術は奈良時代に大きく進歩しました。

 

唐風文化を吸収した時代

 

唐風文化の衣装の様子、とても華やかです。
重ねられた大袖は唐の影響、化粧も唐風に。
素材は絹。貴族の着る素材は全国のカイコ
の養蚕技術が進んだことにあります。

唐の文化のあれこれを、律令国家体制が整ったこの時代に唐風文化として輸入されたのでした。

持統天皇が703年に亡くなられた後、

710年に平城京に遷都し奈良時代に入ります。
718年、藤原不比等らが中心となって、大宝律令のあとの養老律令が完成、その中の衣服令は細かい衣装への指示がありました。

・髪は結いあげること。

・髪飾りは象牙や金属。

・化粧は白粉、口紅、額と口元の点々の赤い紅。

・着物の色は夫や自分の父親の位の高さによってきめられる。

・儀式、普段着の色の違い、

冠に真珠をつけられるのは天皇と皇子、

など。

この中に髪飾り以外のアクセサリーは入っていませんでした。
この衣服令で決定的に消えてしまったと考えます。

 

さて、余談ですが、唐風文化と言われた「唐」という国。

ちょうどこのころの話です。
唐には、シルクロードを通じて世界から人が集まり国としても栄えておりました。

玄宗の妃で、あまりの美女で国が傾くほどといわれた楊貴妃も、この時代の唐の都の長安に、ちょうど聖武天皇の頃に生きた女性です。

このように繁栄して豊かな唐の影響を受けて、日本は様々な文化を吸収したのでした。

 楊貴妃図 静嘉堂

この絵を見ても、楊貴妃の姿にネックレスやイヤリングはないようです。

中国の歴史衣装に関する博物館では、唐の時代の女性の衣装の布地は薄く、しかしアクセサリーを着けていないマネキンを見ました。

豊かな唐なのに、髪飾りは豪華であり、可憐なのにボディにはアクセサリーを使わなかった。何か関係はあるのでしょうか。

日本もそれに倣ったのではないでしょうか。

 

日本人は、唐の文化を吸収し自分流に変換する時がきました。
それは、染色への情熱によって独自の感性が生まれていきます。

今回は、独自の感性となる前、飛鳥〜奈良時代の染色についてまとめてみました。

 

次回は平安時代へ、日本人の美意識の開花。④へ

 

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One Thought on “ART& PEARLS/パールでたどる世界史:日本からアクセサリーが消えた理由③飛鳥と奈良時代の染色”

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