いにしえをたどろう 4

 

【はじめに】

日本はいにしえの、ある時代から約1000年の間アクセサリーが消えてしまいました。

その理由はなんだろう。

①飛鳥時代1

②飛鳥時代2

③奈良時代(飛鳥と奈良時代の染色)

④奈良時代〜平安時代

に分けてそれぞれの時代背景とアクセサリー事情を探ってみました。

そこには、国づくりに情熱を傾けた古代の人々と、外国の文化を捉えて消化していく姿が見えました。

目的:

歴史をたどることで、なぜアクセサリーは消えてしまったのか、を探る

なぞ:

日本はには昔から真珠の産地がある。なぜ使われていなかったのか。

仮説:

日本独自の文化がそれを必要としなくなった。時代背景と精神性が関係がありそう。時の政治との関係も背景のひとつ。

 

最終回の平安時代は王朝文化でありながらアクセサリーがなくなります。

いよいよその謎の解明と結論へと導きます。

パールでたどる世界史、日本編④ 奈良時代〜平安時代

 

これまでの記事はこちらから。

飛鳥編1

https://veronic-pearls.com/jewelry-history/3505/

飛鳥編2

https://veronic-pearls.com/jewelry-history/3559/

奈良時代 飛鳥と奈良の染色

https://veronic-pearls.com/jewelry-history/3723/

 

唐の文化をしっかり受け止めて取り入れる<奈良時代>

 

律令制が完成していく過程で衣服令が発出される。
いよいよアクセサリーは身につけられなくなる!

 

奈良時代は、特に、律令(法律)宮廷儀式、学問、服装、書道、等の当時の中国(唐)の影響をとても強く受けた、仏教文化の色濃い時代でした。

 

前回③で記述したように、奈良時代の718年の「衣服令の制定」によって、地位、身分、序列をを表すのに、冠や衣服の色によって細かく決められることとなり、見た目も整ってきました。

これは唐の服飾に影響されて制定されたもので、聖徳太子の冠位十二階から徐々に進められてきた事がまとめられたのです。

 

どんな地位の人が何を着るのか、その奥さんは何を着てどんなお化粧をするのかと、かなり詳しく決められています。

(一つ前の③の後半にそのことについて書いてあります。)
https://veronic-pearls.com/jewelry-history/3723/

 

絵にするとこのようなスタイルです。

 

すでに奈良時代には染色の技術も進んで40色以上の植物染めが可能になっていました。
(長崎盛輝著、日本のの伝統色より 青幻舎)

でも、奈良時代は、着々と律令体制が整う一方で、世の中は飢饉や天然痘、天皇を間に激しい政権争いが起こり不安定な時代でもありました。

奈良時代の真珠の記述

 

724年天皇となった聖武天皇は、仏教の力で世の中を鎮めたいと東大寺に大仏を建立しました。

752年、その大仏開眼の法要の際の天皇の衣装の記録によると、大量の真珠が用いられたようです。

正倉院には、現在4158個のあこや真珠があって、そのうち3830個が礼服、冠、履物、帯、小刀に使われています。

冠はバラバラとなっていますが、その部品にはたくさんの真珠がついています。

平安時代の「延喜式」という書物には「真珠は天皇の衣冠束帯には欠かせない、元日の朝賀や即位の儀式には天皇に近い位のものには使用を認められていた」という記述があります。

真珠は位の高い人々の象徴だったのですね。

衣服令でもわかるように、アクセサリーは髪以外には許されていないようです。

また、同時に現在にもある、着物の合わせが先に右側の見頃、続いて左見頃を重ねる「右前」にするようにということも定められました。

と、考えると、この衣服令というのはその後の衣装にかなりの影響力があったのでは?と思うのであります。

 

王朝貴族と貴族の時代<平安時代>

 

いよいよ本格的な国風文化へ。
色へのこだわりが独自の文化を生み出す

 

桓武天皇へと移り、平城京から引っ越し。平安時代が始まります。

天皇とは別に摂政として政治を動かす藤原氏の台頭。

奈良時代は天皇を間に、藤原氏と反藤原氏で政権を奪い合う時代でもありました。

平安時代には藤原氏の一大勢力となり、そのあと約390年間その王朝国家を保ち、後の明治維新まで平安京が中心地になりました。

平安仏教と遣唐使

唐風文化を感受した奈良時代の仏教ではなく日本の仏教を、という桓武天皇の任を受け遣唐使が派遣され、最澄や空海が日本に戻ってきた際に、天台宗や浄土真宗を開きます。

しかし、遣唐使は飛鳥時代から数えて260年の間に20回ほど渡り、様々な影響をもたらしましたが、894年位に廃止されました。

対外的孤立

これによって、事実上日本は「対外的孤立主義」となり、国内に目を向ける時代となるのです。

唐の文化を消化、吸収していく中で日本人の感性や美意識が磨かれ、それらは国風文化として独自なものとなり発展していきました。

・文学(物語、日記)
・仮名文字
・香木
・染色  等

紫式部で有名な「源氏物語」にも、当時の染色へのなみなみならぬ「こだわり」が垣間みえます。

重ねと襲

春夏秋冬の色目の決まりをかさねの色目ともいいます。

それらを重ねる「重ね」、その重ねる様を「襲ね」(かさね)と呼び、先染め糸を織ってつくる「織り」、

日本の森羅万象が染色という技術の中で生き生きと映し出されます。


(襲ねの衣装を着る貴族、源氏物語図屏風、土佐光則、若葉上。国立博物館蔵)

貴族の男女は、その季節の色を遊ぶことで教養を高めていきました。

手紙ひとつにも、美しい仮名文字を綴り、美しい言葉を繰り、季節に合わせた染色の和紙を用い、香りをつける。
そこに教養の高さと興味を起こさせ、季節の枝葉をそえて届ける。

それがその人物を表すのですから力が入ります。

結婚にも関わる大事な一大パフォーマンス。

色の演出がとても大事だったのですね。

そして、それゆえに宮殿には専用の染殿を完備し染料の管理をしていました。

平安時代の後期までに、これだけの色がそろっていました(私の手作り故見づらくすみません)

 長崎盛輝著、日本の伝統色のチップより

十二単を代表とする襲ねの色目として宮中の女性は、四季を愛で、それを色で表現するというセンスの有無が分かれ目。
日本ならではの風習となりました。

源氏物語のなかにも…

源氏物語の男性陣もかなりおしゃれで同じように色を重ねて着こなします。

中でも「花の宴」というくだりでは、光源氏が「桜色の衣装を着て現れる」シーンがありますが、当時の着物はまだ筆で絵を着物に描くことはなく、季節感は色で表現していました。

桜は、源氏は濃い赤の着物の上から絹の生糸の織りの着物を合わせ透けさせることで表します。

(これは、比較的濃い赤にトレーシングペーパーで雰囲気だけ再現してみました)

春の色目は決まっているので、それをいかに組み合わせるかがセンスです。

この濃い紫色はとても高貴な色でした。このような濃い色になるのは、何度も何度も紫草の根から出した色で染め上げないとできません。

光源氏の最愛の「紫の上」が染殿で色を指示している箇所もあり、妃が色を支持するのは大事な役目だったとか。

他にも「玉鬘」のくだりでは光源氏が囲っている女性たちへ、それぞれのイメージの色の『重ね色目の着物セット』を贈るシーンがあります。

そのように、宮中や貴族の間では「染色」がとても大事だという事は、読んでいると随所に感じられるので、そのこだわりや、きらびやかさはアクセサリーの存在を凌駕するものかもしれないと思うのでした。

平安時代の真珠

 

もはやアクセサリー(装飾品)も真珠も完全に蚊帳の外になってしまいました。

平安時代は、着物の文化と言ってもいいかもしれません。

渤海国

寒い冬に「末摘花」が上等な黒貂の毛皮(セーブルコート)を羽織るシーンが源氏物語にもあります。
超高級品でステイタスの時期もありました。

毛皮はどこからくるのでしょう?

7世紀に朝鮮半島の北に「渤海国」という国ができて10世紀に滅亡しますが、この国の交易品が毛皮でした。

太宰府は交易品を売買する外交の窓口でした。ここで貴族がこぞって舶来品を買いにきていたとか。(鴻臚館 ・こうろかん)

すでに日本人の海外渡航はできませんでしたが、貿易船は来航していたので珍しいものも手にはいりました。

渤海は現在の中国、ウラジオストク、ロシアの一部地域あたりなので、渤海人はロシアンセーブルなどの高級毛皮を生業にしていたと思われます。

その代価に支払われたのが真珠です。
等価交換によって毛皮を手に入れたり、または土産として使われたようです。

「延喜式」にも記述がありますが、島根県の対馬は真珠の産地で、その真珠を購入しに貴族が押し寄せたとあります。

実際に、藤原道真に日記には、唐への進物に真珠と毛皮を持たせたということが書かれています。

さて、最初の目的の、

【なぜ、日本からアクセサリーが消えてしまったのか?】

 

は、次のようなことではないかと思っています。

  • 飛鳥時代以降、仏教文化を取り入れたことで装厳具となった。

 

  • 飛鳥時代、天皇と豪族との違いを固持するのに勾玉は天皇の物とした。(現在も三種の神器)

 

  • 奈良時代、律令体制の中の衣服令により位による衣装が厳密に決められ、装飾品は髪飾りのみとなった。

 

  • 平安時代、遣唐使の廃止等によって対外的孤立主義となり日本独自の国風文化が生まれていく。

 

  • 国風文化の中で、染色の技術や日本人の感性によって染色が装飾品を凌駕するほど華やかになった。

 

  • 平安時代、真珠は大陸と交易するのに重要なアイテムとなって貨幣のように使われた。

 

  • その後の時代、戦国時代には天正の少年使節が当時のローマ法王に長崎の大村藩で採れた真珠を贈っている。

 

  • 江戸時代、真珠が採れる長崎の大村藩では生育環境を整備し真珠の独占事業をはじめ出島からオランダに輸出するようになった。

 

  • 江戸時代、薬としてつかわれるようになった。

 

  • そして、明治維新後は、改めて装飾品がきらびやかに登場するようになる

 

【結論】日本人の感性が季節と密接な関係があったから

 

有史以来、真珠や装飾品(アクセサリー)は政治権力の狭間にありました。でも日本はそれらを放棄するような形を選びました。

感性や技術等、存在していてもおかしくはないが敢えてそれらを身につけなかったことは、やはり不思議ではあります。

しかし、それに変わる文化として(アクセサリーと同様に)生地の色や柄に意味をもたせ衣服令を律儀に守ってきた部分も大きいように思います。

そんな様式の中で、季節と密接な日本人独特の感性が育まれてきたのだと考えます。

まるでアクセサリーのような美しい「着物」は日本の風土や気質にあった染色という高い技術で次の世代へと移っていきました。

着物にバランスよく収まる「髪飾り」=かんざし等以外は必要ではなかったのかもしれません。

残念ながら、今では化学的な色彩や植物の減少でもはや当時をそのままの「染め」を継承することも難しくなってしまいましたが、日本人として知っておきたい文化だと改めて思いました。

  •  紫草のつぼみ

 

真珠が好きで調べています。
世界の真珠も様々な歴史があります。

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