新型コロナのような感染症に対して不要不急のジュエリー。

本当に何も役にたてないのかと考えてみたところ、ふと思い出したのでこの機会にまとめてみました。

それと絵画、彫刻、華やかなルネサンスだけがペストのあとに来たわけではない、メメント・モリというちがう側面から眺めてみます。

*****

どんなに文明が発展しても感染症は何度も何度も手を変え品を変え、見えない敵となって私たちを恐怖に陥れてきたことはよく知れたことですね。

ヨーロッパにもペストの大禍が繰り返し起こりました。

ルネッサンスからバロックへ移る時代にも大きなペストだけでも2、3回のパンデミック。

いったい当時の人々の精神や時代背景はどうだったのでしょうか。

ポマンダーというジュエリーと感染症との関係

 

Pomme-dambre(仏)ポマンダーは疫病から身を守る魔除けの一種、「瘴気」(しょうき)を払うものとして王室や貴族が身に着けていたジュエリーのことです。

あまり聞き慣れない「瘴気」とはなんのことでしょう。

・瘴気(説)

古代から19世紀まで疫病や伝染病を引き起こすのは「悪い空気」「悪い水」考えられ、古代ギリシアのヒポクラテスも唱えています。

紀元前の時代からあったのですね。

「瘴気は沼地や淀んだ水からのエアロ・ゾロ状物質のものを吸い込むことで病気になる。
呪いやたたりの呪術的なものとは異なり、何か呼吸と原因がある」
と捉えられていたそうです。

特に激しかった14世紀のペストで当時のヨーロッパの人口の3分の1〜3分の2、イギリスやフランスでは過半数のひとが亡くなったと推定されています。

17世紀にもペストの大流行が起こりその時の対策の中ではこのような防御服やマスク登場しました。
有名なベネチアのカーニバルでもこのコステュームが多くみられますよね。

怖い出で立ちですが、お医者さんだったとは。
でもこれではすぐに感染してしまいそうです。お医者さんもさぞかし恐ろしかったでしょう。

医師シュナーベル・フォン・ローム」(出典 Wikipedia)

パウル・フュルストの版画1656年)

瘴気論による感染源とみなされていた「悪い空気」から身を守るため大量の香辛料を詰めた嘴状のマスクを被っていました。

 

この画像は実際に使われていたマスクです(出典 BBC)
A plague doctor was a special medical physician of the Middle Ages who saw people who had the bubonic plague.
イギリス、スコットランドで展示されたコスチュームですが、17世紀の街はかなりの人口密度だったらしいですね。


香料入りのワックスを塗ったコート、ヤギ革製の帽子や手袋を身に着け、患者を触るための杖を持っていました。

そんな瘴気による(と思われていた)伝染病にせめてもの対抗するのにポマンダーというジュエリーがありました。

・ポマンダーのジュエリー


情報や医療が当時とは全く異なるので想像はつきませんが、今現在でも見えない治療方法。

とはいえ、古代〜中世において、ギリシアやイスラーム圏で医学の発展はされて来ました。

ただ、細菌というものが存在すると人類が知ったのはキリスト教修道士による14世紀で、初めて病原菌を見たのは顕微鏡の精度が高くなった17世紀のこと。

本格的に医学者による感染症への実験がはじまったのは中世が終わった19世紀になったころだそうです。

まだまだ中世では「瘴気」と思われていたこの時代、流行病に魔除け的なジュエリー(ポマンダー)が存在しました。

ポマンダーはpomme(りんご)とd’amber(香りであるアンバーグリス・・・マッコウクジラの体内にある結石の一種)が由来です。

 

金、銀製、象牙などの丸い容器にスパイスやハーブ、フラキセンセンス、アンバーグリス、ムスクなどを詰めて日常的に瘴気から身を守ろうとした「ポマンダー」は着飾る事の多い王侯貴族たちのアクセサリーとなりました。

・絵画からみるポマンダー

なす術もなく流行病を受け入れてきた中で、複数の絵画からどんなふうに使われていたのか窺い知ることができます。

エリザベス女王、オランダの貴婦人、イタリアの貴族、年代があまり違わず、皆このポマンダーを着けていることでヨーロッパに蔓延していたことがわかります。


(Unknown author/(1575年)Queen Elizabeth Ⅰ holding a pomander) @private collection
エリザベス1世は8人の妻で有名なヘンリー8世の娘でしたが身内同士の過酷な権力争いに巻き込まれた後に女王になる苦労人、負けん気も強く、常に美しくありたい女性、ふんだんなジュエリーと豪奢なファッションは圧巻でした。

女王の施政下の1558~1603にペストが流行し、その後も断続的にヨーロッパを襲います。
瘴気から守るポマンダーにはさすが金細工に宝石がふんだんに施されています。

(Jacob Cornelisz Van Oostsanen(Netherlands)/1518年  Portrait of Jan Gerritsz Van Egmond)@Amsterdam museum

北オランダの画家で木版画家のヤーコブ・コーネリアス・ファン・オーストサネン。北方ルネッサンス。アムステルダムで活躍。

女性だけでなく男性も身に着けていたのですね。この男性はオランダのアルクマールの市長を勤めた人物で金でできたポマンダーを持っている図、とのこと。

 

(Pieter Jansz. Pourbus (Netherlands)/1560年 An Unknown Lady,Holding a pomander on a gold chain)@London

オランダ生まれの画家、彫刻家、製図工、ピーテル・ジャンズ・プルビュスはベルギーのブルージュにて活躍しました。この女性については情報がありません。
宝石がついていないシンプルなデザインは宗教改革手前の北ヨーロッパの空気感の所以でしょうか。

(Tiziano Vecellion(1542年)/Portrait of Clarissa Strozzi)@Berlin museum

ティツィアーノ・ヴェチェッリオによるクラリッサ・ストロッツイの肖像画です。2歳のころでしょうか。
腰から下げる方法が多いようです。
ポマンダーに細かな細工が見えますがチェーンらしきものも何か彩られているようです。
余談ですが、ストロッツイ家はメディチ家と並ぶフィレンツェの貴族で、美しいルネサンス様式のストロッツイ宮殿が現在も市内にあり、展覧会の会場になってかつての栄光が偲ばれます。

 

(Agnolo Bronzino(1565)/Lucrezia di cosimo de Medici) @Uffizi museum

ーニョロ・ブロンズィによるルクレティア・コジモ・デ・メディチの肖像画。スペイン風の硬くて高さのある襟の付いた服を着ています。メディチ家に嫁ぎ16歳で亡くなったルクレティアは母親が好きな真珠で身を飾っています。胸にかざしている金細工のポマンダーにも大きな真珠が下がっています。

主に16世紀に描かれた肖像画には他にもポマンダーを持つ絵が何枚かあります。

腰から下げたりスカート内に入れたり身近な存在だったと思います。
長いチェーンやコードにつながれたポマンダーはたぐり寄せればすぐに嗅ぐことができて、腰から下げる理由はそのためだと思われます。

*****

次は、ポマンダーが身近なもの、お守り的なものだったということが明るみになった”発見”をご紹介します

難破船で見つかったポマンダーの発見

 

2015年のこと、アムステルダムの北およそ100キロの地点で地元のダイビングクラブが、沈んでいる船を発見し、その中には銀製のポマンダーも見つかりました。

この海域はたくさんの船が沈んでいるそうです。

                                                                                  (PHOTOGRAPH BY KAAP SKIL MUSEUM)

このポマンダー、先ほどの「Jan Gerritsz Van Egmon」の絵画のポマンダーに似ていませんか。

見つかったのは17世紀の沈没船で、イングランドの時の王 ”チャールズ1世”の王妃や王妃の侍女の持ち物だったと推測されました。(チャールズ1世:1625~1649)

                                                                    (PHOTOGRAPH BY KAAP SKIL MUSEUM)

この海域では風や海流が変化する影響で数百隻もの船が難破しているようで、
船はイギリスからオランダに訪れる際の船団でそのうちの一隻が沈没したとの事。

かれこれ数百年も海底に沈んでいた事になりますが海底の砂に覆われていたのが幸いして織物がきわめて良好な状態で保存されていたようです。

王妃のポマンダーは意外にもシンプルなものでしたが繊細な作りできっと美しいものだったでしょう。

*****

次は、恐ろしい伝染病が人々に与えた影響をジュエリー、絵画、彫刻などから見てみます。大禍のあとに続いた芸術の傾向とは?

ペスト含めて社会現象を元にヨーロッパ中世の思想・精神性がその後の芸術を作っていったように感じます。

メメント・モリとジュエリー

・メメント・モリのきっかけ

ヨーロッパではペスト以外にもたびたび伝染病が人々を襲いましたが14世紀に起きたペスト大流行では前述のようにかなりたくさんの死亡者がありました。

1348年〜1420年にかけて断続的に流行したペストと同時期の1337年〜1453年には英仏で100年戦争がありました。大勢の犠牲者と戦死者で葬儀も埋葬も追いつかない状態でした。

世の中の不安がイギリスとフランスでは農民一揆へと向かわせ(ワット=タイラーの乱)(ジャックリーの乱)、人々の気持ちはキリスト教の「現世の楽しみより来世に思いを馳せる」ようになったのでしょう。

ペストには有効な治療法もなく、いかなる地位・武力・富も意味を成さず、あらゆる階級の人々が為す術もなく死んでいく、100年も止まない戦禍。荒廃した社会情勢の中で、メメント・モリ「死を記憶せよ」の警句が言い習わされるようになっていきました。

伝染病や戦争で次々となくなる命を目の前で見た時に、中世の人々の世界観は死後蘇って永遠の幸福を得るという意識が高まったのもわかるような気がします。
今のような行動の自由も経済的自由もないのですから。

イタリアでペストの大禍はありました、それでもその地域性からルネサンスが花開いたのですがその文化を享受していたのは宮廷や貴族、教皇庁など一部に限られていました。

・メメント・モリの芸術

そんな中、15世紀にはフランスの寓話の「死の舞踊」がヨーロッパ各地で主題として描かれるようになりました。
キリスト教美術における教訓画として「死の舞踊」、「死の勝利」の様式が普及していきました。

出典 wikipediaミヒャエル・ヴォルグモート「死の踊り」版画 1493

上の「死の舞踊」は、メメント・モリという思想のもと死の象徴の骸骨があらゆる人と踊りながら墓場に導く様子を描いたものです。

 出典 wikipedia   ピーテル・ブリューゲル1562

「死の勝利」は骸骨姿の死があらゆる階級の生者へと襲いかかり、容赦なく蹂躙するという様式でより恐怖や凄絶さにあふれたものです。

・ジュエリーのメメント・モリ

私がまだジュエリーの世界に入って間もない頃、あるジュエリーの展覧会に行きました。

おびただしいメメント・モリのジュエリーに驚いたり気持ちが暗くなったり。
これはいったい何なの?と美しいジュエリーのイメージとは違ってとても驚きました。


⑴An interesting pendant : He was born, lived, died in this home. Germany, late 16th – early 17th century Gold, enamel, rubies, diamond


Metropolitan Museum of Art, here’s a 16th century memento mori rosary carved out of ivory featuring man


⑶Top left: The Torre Abbey Jewel 1540-50, Top right : Toothpick about 1620, Bottom : Ring 1550-1600, inscribed “Be Hold The Ende” and “Rather Death Than Fals Fayth” V&A所蔵 V&A


⑷Made in England, 1773 (source). The ring memorializes the death of Sir Evelyn Pierrepont,.

これらのジュエリーは、見た目は恐ろしいけれど、今から500年も前の作品はとても繊細な細工を施されており、技術の高さが偲ばれます。
その時代において、おそらく持ち主のいい知れない不安に寄り添い、彼らとともに過ごしたお守りにちがいないと思いました。

ジュエリーは身に着けていて心休まるもの、なんであれ支えになればいい。

この時代も今の時代も先が見えない、この時代は「メメント・モリ」”死を忘れるな、死を想う”が人々の心に深く浸透したのですね。

今この時代は何だろうとふと考えたりする。

でも誰にでも襲いかかる感染症には当時と同じ危機感を持つべきかもしれません。

 

*****

メメント・モリは結果的に様々な芸術を生み出しました。「死の勝利」は墓標のレリーフにもなり、その名は
「トランジ」という墓標。
また他にも「ヴァニタス」という静物画は北ヨーロッパに新しい精神性を吹き込みました。
どんな形へとなったでしょうか。

 

「トランジ」と「ヴァニタス」

*トランジ(transi )

トランジとは中世ヨーロッパの貴族や枢機卿などの墓標に用いられた朽ちる過程の遺体の像やレリーフのことで
死骸の姿や体には穴があき蛆やかえるなどが張り付いている事が多いのですが、少し不気味です。

これらはメメント・モリの思想から見た者に浮世のはかなさを説くものとなっています。

トランジを作った人々は生前の遺言によって死後に作られました。

この流行は14世紀の後半から16世紀までであり、ルネサンスと共に消滅しました。

                       (出典 wikipedia)

トランジの中でもこちらの墓標は均整のとれた彫刻が美しい姿です。
1544年、フランス地域のサン=ディジェの戦いで25歳で亡くなった皇太子、ルネ・ド・シャロンの等身大像です。

肉体の儚さを表し干涸びた骨になった皇太子が自分の心臓を高々と掲げています。北ヨーロッパの寓意的な静物画のジャンルのひとつ。

*ヴァニタス(Vanitas ラテン語)

 

”古典古代の復興”を背景とするイタリアルネサンス絵画での’調和美’とは一線を画していた北ヨーロッパの美術様式ですが、絵画作品としては古典的なキリスト教の宗教画や小規模な肖像が多く、物語性のある絵画や神話画はほとんど描かれませんでした。

風景画は独自の発展を遂げていて単独で描かれることもありましたが、16世紀初頭までは肖像画や宗教画の背景の一部として小さく描かれることのほうが多かったようです。

16世紀から17世紀にかけて「メメント・モリ」の精神を表す静物画が多く描かれました。

というのも、リアリズムを求め、写実的に身近なものを描くことに関心が高まり人気もあつまりましたが、格を上げ宗教画のように精神性を持たせることでこの寓意性が好まれました。

ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画であり豊かさなどを意味するさまざまな静物の中に、人間の死すべき定めのシンボルである頭蓋骨や、あるいは時計やパイプや腐ってゆく果物などを置き、観る者に対して虚栄のはかなさを喚起する意図をもっていました。

ヴァニタスの「空しさ」の引用は旧約聖書の「コヘレトの言葉」(伝道の書)にあります。

 


ピーテル・クラース「ヴァニタス」1630  

 
ポール・セザンヌ「頭蓋骨のある静物画」1895

まとめ

 

人類の歴史は感染症との戦いの歴史でもある、と聞いた言葉ですが、本当に共生するしかないのかもしれません。

どんなに科学が進んでもその存在を根絶することは不可能のようです。
中世から近世までの長い暦の中でも人類は抗い諦め、受け入れ精神性を身に着け表現するという術を持ちました。

ジュエリーのデザインをしていて、かつて人々を慰めたように何か安らぐものって何だろうと思う日々です。

新型コロナウイルスはまだ終息の気配はありませんが、人類はこれまでも災疫が収束後は再生し高みをめざし発展を続けてきた過去があります。

今、これ以上の発展を目指すのか、足踏みをするのか、全くちがう価値観になるのか、わかりません。
でも覚悟とともに希望を持っていたい。この記事が過去となった未来に希望を照らして。
どうか誰もこれ以上の犠牲者が出ませんように。

少しでも早く薬とワクチンの開発が待たれます。

参考文献
*瘴気説・ペスト医師・wikipedia
*「スコットランドのペスト医師」英国BBC
*難破船で見つかった発見National Geographic
*最新世界史図説「タペストリー」
*「中世ヨーロッパの歴史」堀越孝一著、講談社学術文庫
*「ジュエリーの世界史」山口遼著、新潮文庫
*「ルネサンスの女たち」塩野七生著、新潮社
*「ルネサンスとは何であったのか」塩野七生、新潮文庫

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です